先日の海外ニュースで、「死海にて、イスラエルの8歳の男児が沖に流され、漂流6時間後に、岸から約3キロのところで無事救助される。」とあった。
死海は、アラビア半島に位置し、西にはイスラエル、東はヨルダンに接する巨大な塩湖である。塩湖の塩分濃度は、海水が3パーセントあるのに対して、死海は30パーセントと極端に濃く、当然のことながら、魚など生物の生息できる環境ではなく、そのことから死海と名づけられたらしい。
僕も小学生のころ社会科の教科書で、人が新聞を読みながら、プカプカと海に浮かんでいる写真を見て、いつか死海に行ってみたいと思っていた。
1993年春、僕はイスラエルより国際展の誘いを受け、作品制作ならびに展覧会準備の為、約一ヶ月間テルアビブのラナーナで、アーティスト・イン・レジデンスをすることとなった。当時のイスラエルは、湾岸戦争の直後とあり、テルアビブもイラクから数十発のスカット・ミサイル攻撃を受けており、街のあちこちにその傷跡は残っていた。ただ、その様な状態にあっても、展覧会企画者ならびにスタッフ・市民ボランティアの人達は、前向きに芸術の必要性を求め、国際展を実現・成功裏におさめたいとする熱い思いに、僕も少々戸惑いを覚えながらも参加させていただいた。
制作も終盤に差しかかり、作品の全体像も見えはじめ、気持的にも幾分余裕が感じられた頃、僕は現地ボランティア・スタッフの慰労も兼ね、二日間のオフを取りイスラエル観光をすることにした。
イスラエルとは、宗教に政治が複雑に絡み合い、異なる文化・思想の人種が共存してきた国である。また、土地所有権の問題でも、これまでに繰り返し血で血を洗う抗争が繰り広げられてきた国である。この事からも、この国の重層かつ複雑な歴史に、僕は以前より興味を持っており、この時とばかり、現地スタッフのイスラエル人に、僕の行ってみたいところ数箇所をリクエストした。
僕たちはレンタカーを借り、まずはエルサレムへ。ここはかつてイエス・キリストが処刑され復活した地であり、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の聖地でもある。旧市街には聖墳墓教会・嘆きの壁と宗教ゆかりの施設があり、嘆きの壁の上部には、イスラム建築の傑作とされる岩のドームが建っていた。この、ユネスコが世界遺産にも登録した石畳の続く旧市街地区は、宗教・人種・異文化の交じり合う、それはこれまでに経験したことのない、神秘的で活気に満ちた街であった。次に我々が向かったのはイスラエルの南西、かつての要塞都市クムラン。ここには「死海文書の謎」でも有名となったクムラン洞窟、そして問題の「死海写本」(ヘブライ語聖書)がある。ここでは日中40度を越す気温の中、荒涼とした岩山を汗まみれになり、無言で歩き回ったことを覚えている。・・・・・そして僕らは、最終目的地である死海へと向かった。
僕が、子供の頃より夢見ていた海、「死海」。・・・・・それは、それは、想像を超えるものであった。まずその海の色に驚き、沖合いに見える巨大な塩の柱に驚かされた。これは現実に見た者でしか理解できない光景であろう。
死海とは、かつて海であったところが、年間を通じ大量の水が蒸発し、永い歳月の中で巨大な海水湖となり、さらに、この周辺の土壌には元来含まれる塩分の量が多く、それが凝縮されるかたちで塩湖となっていった経緯があるらしい。
僕は死海を眼前にし、衝動を抑えきれないまま、素っ裸となり水の中へ飛び込んだ。と・・・・・その瞬間である。僕は両足に強烈な痛みを感じ、飛び跳ねるよう岸へと戻った。痛みの原因はすぐに理解できた。炎天下の中で3週間、ずっと作業靴を履き、作品制作してきた僕の足は、水虫に犯されていたのだ。さらにスネの部分にも複数の傷があり、まさに水虫と切り傷に、塩を擦りつけた状態となったのだ。それも10倍の濃度の塩である。
ただ結果、不思議なのだが、その痛みも数十分で治まり、再度僕は死海に入ることとなる。(死海に入ったお蔭で、翌日には水虫と切り傷は治っていた。)・・・・・しかし奇妙なものである。70キロある僕の体が沈まない。波もなく穏やかな海に、僕はプカプカと浮いている。小学校の社会科の教科書に載っていたあの光景が、今、自分の身体で起きている。多分一時間以上は浮いていたであろう。あの死海にプカプカの感覚は、二度と忘れることの出来ない経験であった。
帰りの車の中で聞いた話だが、エルサレムという名の語源は、ヘブライ語で「平和の街」、またアラビア語では「聖なる家」という意味があるらしい・・・・・。
イスラエル・・・・・。こんなに歴史的で美しい国が、いつまでも戦争という、人類最も愚かなことで破壊されることは、もう終わりにしなければいけないとつくづく思った。
死海は、アラビア半島に位置し、西にはイスラエル、東はヨルダンに接する巨大な塩湖である。塩湖の塩分濃度は、海水が3パーセントあるのに対して、死海は30パーセントと極端に濃く、当然のことながら、魚など生物の生息できる環境ではなく、そのことから死海と名づけられたらしい。
僕も小学生のころ社会科の教科書で、人が新聞を読みながら、プカプカと海に浮かんでいる写真を見て、いつか死海に行ってみたいと思っていた。
1993年春、僕はイスラエルより国際展の誘いを受け、作品制作ならびに展覧会準備の為、約一ヶ月間テルアビブのラナーナで、アーティスト・イン・レジデンスをすることとなった。当時のイスラエルは、湾岸戦争の直後とあり、テルアビブもイラクから数十発のスカット・ミサイル攻撃を受けており、街のあちこちにその傷跡は残っていた。ただ、その様な状態にあっても、展覧会企画者ならびにスタッフ・市民ボランティアの人達は、前向きに芸術の必要性を求め、国際展を実現・成功裏におさめたいとする熱い思いに、僕も少々戸惑いを覚えながらも参加させていただいた。
制作も終盤に差しかかり、作品の全体像も見えはじめ、気持的にも幾分余裕が感じられた頃、僕は現地ボランティア・スタッフの慰労も兼ね、二日間のオフを取りイスラエル観光をすることにした。
イスラエルとは、宗教に政治が複雑に絡み合い、異なる文化・思想の人種が共存してきた国である。また、土地所有権の問題でも、これまでに繰り返し血で血を洗う抗争が繰り広げられてきた国である。この事からも、この国の重層かつ複雑な歴史に、僕は以前より興味を持っており、この時とばかり、現地スタッフのイスラエル人に、僕の行ってみたいところ数箇所をリクエストした。
僕たちはレンタカーを借り、まずはエルサレムへ。ここはかつてイエス・キリストが処刑され復活した地であり、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の聖地でもある。旧市街には聖墳墓教会・嘆きの壁と宗教ゆかりの施設があり、嘆きの壁の上部には、イスラム建築の傑作とされる岩のドームが建っていた。この、ユネスコが世界遺産にも登録した石畳の続く旧市街地区は、宗教・人種・異文化の交じり合う、それはこれまでに経験したことのない、神秘的で活気に満ちた街であった。次に我々が向かったのはイスラエルの南西、かつての要塞都市クムラン。ここには「死海文書の謎」でも有名となったクムラン洞窟、そして問題の「死海写本」(ヘブライ語聖書)がある。ここでは日中40度を越す気温の中、荒涼とした岩山を汗まみれになり、無言で歩き回ったことを覚えている。・・・・・そして僕らは、最終目的地である死海へと向かった。
僕が、子供の頃より夢見ていた海、「死海」。・・・・・それは、それは、想像を超えるものであった。まずその海の色に驚き、沖合いに見える巨大な塩の柱に驚かされた。これは現実に見た者でしか理解できない光景であろう。
死海とは、かつて海であったところが、年間を通じ大量の水が蒸発し、永い歳月の中で巨大な海水湖となり、さらに、この周辺の土壌には元来含まれる塩分の量が多く、それが凝縮されるかたちで塩湖となっていった経緯があるらしい。
僕は死海を眼前にし、衝動を抑えきれないまま、素っ裸となり水の中へ飛び込んだ。と・・・・・その瞬間である。僕は両足に強烈な痛みを感じ、飛び跳ねるよう岸へと戻った。痛みの原因はすぐに理解できた。炎天下の中で3週間、ずっと作業靴を履き、作品制作してきた僕の足は、水虫に犯されていたのだ。さらにスネの部分にも複数の傷があり、まさに水虫と切り傷に、塩を擦りつけた状態となったのだ。それも10倍の濃度の塩である。
ただ結果、不思議なのだが、その痛みも数十分で治まり、再度僕は死海に入ることとなる。(死海に入ったお蔭で、翌日には水虫と切り傷は治っていた。)・・・・・しかし奇妙なものである。70キロある僕の体が沈まない。波もなく穏やかな海に、僕はプカプカと浮いている。小学校の社会科の教科書に載っていたあの光景が、今、自分の身体で起きている。多分一時間以上は浮いていたであろう。あの死海にプカプカの感覚は、二度と忘れることの出来ない経験であった。
帰りの車の中で聞いた話だが、エルサレムという名の語源は、ヘブライ語で「平和の街」、またアラビア語では「聖なる家」という意味があるらしい・・・・・。
イスラエル・・・・・。こんなに歴史的で美しい国が、いつまでも戦争という、人類最も愚かなことで破壊されることは、もう終わりにしなければいけないとつくづく思った。
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