平成23年1月31日朝、ラジオのニュースは繰り返し北陸・日本海側に降る大雪の影響で、高速道路や新幹線のまひ状況を告げている。
西日本から北日本上空は、広い範囲で強い寒気と冬型の気圧配置が影響し、新潟・富山・石川・福井・滋賀は断続的に雪が降り、多いところでは積雪が平年の3倍以上になっているとのことである。そしてここ愛知芸大の空にも、今朝未明より白いものが舞い始めている。・・・・・午前の講義前ではあるが、僕は福井に住む姉の事が気になり、電話でその雪の状況を確認した。
受話器の向こうからはいつもの元気な声と共に、福井市内の積雪はすでに1メーターをゆうに越え、大雪による街中の状態や道路の除雪状況が伝えられ、それでも未だ降り止まぬ福井特有のボタン雪に半ば呆れ・あきらめ感で話す姉の様子に、僕は子供の頃の雪の記憶、「サンパチ豪雪」を想い返していた。
「サンパチ豪雪」とは、昭和38年に福井県下を襲った記録的な豪雪であり、福井市内でも1月末に2メーターを越す積雪を記録したものである。当時8歳・小学2年生だった僕の記憶にも、あの時の雪の脅威は未だ忘れることが出来ない。
クリスマス前後より降り始めた雪は、正月三が日も容赦なく降り続き、建物の屋根や通りには、根雪そして除雪によって道路脇に追いやられた雪がうず高く積み上げられ、各家々は唯一玄関・出入り口部分だけが社会との接点となり、通りを行きかう人達も、地面より高く踏み固められた雪の上を歩きながらの生活であった。時計の修理・卸商をしていた我が家も豪雪では商売にならず、連日降り続く雪に家族総出、町内総出で屋根の雪下ろし・通りの雪かき、さらにその雪を県庁前のお堀にトタン橇で捨てに行くといった毎日であった。子供たちも当然学校から帰ると、勉強そっちのけの雪かきである。ただ子供には大人ほどの悲愴感や切迫感はなく、家の脇に堆積した雪でどれだけ大きなカマクラを造れるか、町内の仲間たちと競い合うのが楽しみの一つであった。
ただあの日、昭和38年1月31日・・・・・。一夜にして1メーター以上の雪に降られた時は、さすが子供の僕も雪の恐怖を全身で味わった。・・・・・朝目覚めると部屋の中は真っ暗。さらに冷蔵庫の中にでもいるような寒さ。恐る恐る電気のスイッチを探し点けるのだが、その照明が点かない。這うように玄関まで行くと、前方入り口の上部より薄っすら光がこぼれている。ただ、玄関のガラス扉は跡形もなく、雪がなだれ状態で内部に押し入っていた。雪の進入は玄関だけでなく、一階の台所や縁側部分でも起きていた。さらに暗い室内のいたるところで、建物のきしむ鈍い音がした。(当時、福井県の観測記録を見ると1月31日の積雪量なんと213cm、雪の重みによる半倒壊約70、000棟、死傷者73人と記されている。) 当然その日学校は休校となり、父親の指揮のもと家族全員が屋根の雪を下ろし、家の中に入った雪をかき出し、壊れた建具を応急で直し、夜遅くには何とか現状復帰まで辿りついた。・・・・・あの日の、汗だくになり必死に家や家族の生活を守ろうとする父と母の姿を忘れる事は出来ない。
今となっては遠い思い出だが、48年前の今日、そして48年後の今日、福井を覆う鉛色の空から、あの冷たく重いボタン雪が降っている。
久しぶりの姉との会話は、「ボタン雪」から思わぬ記憶のスイッチが入ったようだ。でもあの時代は、すべてにおいて大変だったが、すべてにおいて楽しかった。
電話の最後に、「また今年も暖かくなったら、京都にある両親の菩提寺に行こう・・・・・」と、姉を誘った。
西日本から北日本上空は、広い範囲で強い寒気と冬型の気圧配置が影響し、新潟・富山・石川・福井・滋賀は断続的に雪が降り、多いところでは積雪が平年の3倍以上になっているとのことである。そしてここ愛知芸大の空にも、今朝未明より白いものが舞い始めている。・・・・・午前の講義前ではあるが、僕は福井に住む姉の事が気になり、電話でその雪の状況を確認した。
受話器の向こうからはいつもの元気な声と共に、福井市内の積雪はすでに1メーターをゆうに越え、大雪による街中の状態や道路の除雪状況が伝えられ、それでも未だ降り止まぬ福井特有のボタン雪に半ば呆れ・あきらめ感で話す姉の様子に、僕は子供の頃の雪の記憶、「サンパチ豪雪」を想い返していた。
「サンパチ豪雪」とは、昭和38年に福井県下を襲った記録的な豪雪であり、福井市内でも1月末に2メーターを越す積雪を記録したものである。当時8歳・小学2年生だった僕の記憶にも、あの時の雪の脅威は未だ忘れることが出来ない。
クリスマス前後より降り始めた雪は、正月三が日も容赦なく降り続き、建物の屋根や通りには、根雪そして除雪によって道路脇に追いやられた雪がうず高く積み上げられ、各家々は唯一玄関・出入り口部分だけが社会との接点となり、通りを行きかう人達も、地面より高く踏み固められた雪の上を歩きながらの生活であった。時計の修理・卸商をしていた我が家も豪雪では商売にならず、連日降り続く雪に家族総出、町内総出で屋根の雪下ろし・通りの雪かき、さらにその雪を県庁前のお堀にトタン橇で捨てに行くといった毎日であった。子供たちも当然学校から帰ると、勉強そっちのけの雪かきである。ただ子供には大人ほどの悲愴感や切迫感はなく、家の脇に堆積した雪でどれだけ大きなカマクラを造れるか、町内の仲間たちと競い合うのが楽しみの一つであった。
ただあの日、昭和38年1月31日・・・・・。一夜にして1メーター以上の雪に降られた時は、さすが子供の僕も雪の恐怖を全身で味わった。・・・・・朝目覚めると部屋の中は真っ暗。さらに冷蔵庫の中にでもいるような寒さ。恐る恐る電気のスイッチを探し点けるのだが、その照明が点かない。這うように玄関まで行くと、前方入り口の上部より薄っすら光がこぼれている。ただ、玄関のガラス扉は跡形もなく、雪がなだれ状態で内部に押し入っていた。雪の進入は玄関だけでなく、一階の台所や縁側部分でも起きていた。さらに暗い室内のいたるところで、建物のきしむ鈍い音がした。(当時、福井県の観測記録を見ると1月31日の積雪量なんと213cm、雪の重みによる半倒壊約70、000棟、死傷者73人と記されている。) 当然その日学校は休校となり、父親の指揮のもと家族全員が屋根の雪を下ろし、家の中に入った雪をかき出し、壊れた建具を応急で直し、夜遅くには何とか現状復帰まで辿りついた。・・・・・あの日の、汗だくになり必死に家や家族の生活を守ろうとする父と母の姿を忘れる事は出来ない。
今となっては遠い思い出だが、48年前の今日、そして48年後の今日、福井を覆う鉛色の空から、あの冷たく重いボタン雪が降っている。
久しぶりの姉との会話は、「ボタン雪」から思わぬ記憶のスイッチが入ったようだ。でもあの時代は、すべてにおいて大変だったが、すべてにおいて楽しかった。
電話の最後に、「また今年も暖かくなったら、京都にある両親の菩提寺に行こう・・・・・」と、姉を誘った。
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