爽やかな緑香る5月下旬、コンテンポラリー・ダンスではロンドンでも有名なサドラーズ・ウェルズ劇場で、シディ・ラルビ・シェルカウイの新作「BABEL」を観た。
さて「バベル」とは、旧約聖書の創世記にある「ノアの洪水」の後に出てくる物語である。 記述では、・・・・・かつて、世界のすべての人間は共通の言語を持ち、人々は皆、同じ言葉で話が出来たという。そして人々はメソポタミアの南、シナルに理想の場所を求め住み着いた。彼らはとても優れた民で、石の代わりに煉瓦をつくりアスファルトも使うことが出来たそうだ。そこで彼らは最先端の技術を用い、多くの民族と共に力をあわせ天まで届く塔の建設に着手したのだ。一説では、この塔の工事には100年以上がついやされ、完成後頂上まで登るにも、1年かかったとされるほど巨大な建造物であった。
当時この塔を建てることは、彼ら民族の名声と、この地シナルが世界の中心として、二度と共通言語を持つ人々・民族が離散しないためのメタファーでもあった。しかし一部の人間の中には、この塔の存在が天の神に対する挑戦であり、塔の頂上には神を威圧するためのモニュメントも計画されていた。
しかし、こうした人間の思い上がった企てを、神は見逃すはずも無く、・・・・・ある日神は地上に降り立ち、審判を下すこととなる。
かつて神より共通の言葉を与えられた民が、最初に行った共同作業が「バベルの塔」建設という、神を冒涜するものとなってしまい、人間のその傲慢な行為は、まさに彼らが一つの民であり、共通の言語を持つことによって計画されたものであると神は認識された。従って神は彼らに混乱を与え、二度とこの様な愚かな企てを犯させない為にも、人々から共通の言葉を奪うのである。そして、多くの民族は同じ言語を使えなくなり、相互の意思の疎通も出来ないまま混乱し塔の建設は断念される。・・・・・後に、塔はみずからの重さで崩れ去っていったという話だ。
この物語には、我々人類に対する様々な教訓とメッセージが込められているのだが、ヘブライ語であるバベルの語源には「神の門」という意味がある。さらにヘブライ人はこのバベルをバーラルに結びつけて「混乱」という解釈を与え、「バベルの塔」を人間の罪、混乱の物語としても受け止めていたようだ。
・・・・・確かに今なお人間社会は、宗教や民族・言語の違いによって、世界中で混乱をきたしている。今回僕がロンドンで観た「BABEL」は、「言葉・コミュニケーション」がストーリーのテーマであった。異なる国籍と複数の言語、民族・宗教的背景の違いを持つダンサー数十名が、所狭しとパフォーマンスを繰り広げ、人間にとって「言語、そしてコミュニケーションとは何か」、「コミュニケーションとは、果たして可能なのか」といった根源的問いかけが、美しく研ぎ澄まされた身体と共にエモーショナルに表現・展開されるのである。さらにこのステージで興味を引いたのは、アントニー・ゴームリ-の舞台美術であった。鉄製の角材で作られた立方体のフレームが4個、ステージの中央に置かれているだけの至ってシンプルな構成なのだが、それぞれの立方体は一辺の長さが異なり、しかしそれら立方体の容積は等分となっている。従って4個の立方体は自由に重なり回転し積み上がる構造を持ち、イメージによってはプリズンの内部空間にも、或いは都市空間にも、はたまた民族の区分・境界にも多様に変化し存在するのだ。この形態は、「BABEL」の舞台を考える上で非常に重要なコア的意味合いを持つのだが、やはりここでは、彫刻家アントニー・ゴームリ-の身体的芸術性に立った造形概念が、演者の刺激的パフォーマンスをより魅惑的に際立たせていた。
日本では、舞台美術に現代美術家が関わることはまだまだ少なく、やはり舞台は専門の舞台デザイナーによるものが支流だが、欧米では当然のように純粋美術家達が舞台美術を手がけている。今後日本でも現代美術と演劇が融合し、さらに身体表現の新たな領域を広げられるなら、美術・演劇、両世界にとっても野心的且つ創造的なことになろう。
今回ロンドンで観たラルビ・シェルカウイの創作「BABEL」は、台詞と身体、そしてゴームリーの空間造形が見事に溶け合った上質な公演であった。・・・・・やはり人間の心にはアートという栄養剤が時折必要である。
さて「バベル」とは、旧約聖書の創世記にある「ノアの洪水」の後に出てくる物語である。 記述では、・・・・・かつて、世界のすべての人間は共通の言語を持ち、人々は皆、同じ言葉で話が出来たという。そして人々はメソポタミアの南、シナルに理想の場所を求め住み着いた。彼らはとても優れた民で、石の代わりに煉瓦をつくりアスファルトも使うことが出来たそうだ。そこで彼らは最先端の技術を用い、多くの民族と共に力をあわせ天まで届く塔の建設に着手したのだ。一説では、この塔の工事には100年以上がついやされ、完成後頂上まで登るにも、1年かかったとされるほど巨大な建造物であった。
当時この塔を建てることは、彼ら民族の名声と、この地シナルが世界の中心として、二度と共通言語を持つ人々・民族が離散しないためのメタファーでもあった。しかし一部の人間の中には、この塔の存在が天の神に対する挑戦であり、塔の頂上には神を威圧するためのモニュメントも計画されていた。
しかし、こうした人間の思い上がった企てを、神は見逃すはずも無く、・・・・・ある日神は地上に降り立ち、審判を下すこととなる。
かつて神より共通の言葉を与えられた民が、最初に行った共同作業が「バベルの塔」建設という、神を冒涜するものとなってしまい、人間のその傲慢な行為は、まさに彼らが一つの民であり、共通の言語を持つことによって計画されたものであると神は認識された。従って神は彼らに混乱を与え、二度とこの様な愚かな企てを犯させない為にも、人々から共通の言葉を奪うのである。そして、多くの民族は同じ言語を使えなくなり、相互の意思の疎通も出来ないまま混乱し塔の建設は断念される。・・・・・後に、塔はみずからの重さで崩れ去っていったという話だ。
この物語には、我々人類に対する様々な教訓とメッセージが込められているのだが、ヘブライ語であるバベルの語源には「神の門」という意味がある。さらにヘブライ人はこのバベルをバーラルに結びつけて「混乱」という解釈を与え、「バベルの塔」を人間の罪、混乱の物語としても受け止めていたようだ。
・・・・・確かに今なお人間社会は、宗教や民族・言語の違いによって、世界中で混乱をきたしている。今回僕がロンドンで観た「BABEL」は、「言葉・コミュニケーション」がストーリーのテーマであった。異なる国籍と複数の言語、民族・宗教的背景の違いを持つダンサー数十名が、所狭しとパフォーマンスを繰り広げ、人間にとって「言語、そしてコミュニケーションとは何か」、「コミュニケーションとは、果たして可能なのか」といった根源的問いかけが、美しく研ぎ澄まされた身体と共にエモーショナルに表現・展開されるのである。さらにこのステージで興味を引いたのは、アントニー・ゴームリ-の舞台美術であった。鉄製の角材で作られた立方体のフレームが4個、ステージの中央に置かれているだけの至ってシンプルな構成なのだが、それぞれの立方体は一辺の長さが異なり、しかしそれら立方体の容積は等分となっている。従って4個の立方体は自由に重なり回転し積み上がる構造を持ち、イメージによってはプリズンの内部空間にも、或いは都市空間にも、はたまた民族の区分・境界にも多様に変化し存在するのだ。この形態は、「BABEL」の舞台を考える上で非常に重要なコア的意味合いを持つのだが、やはりここでは、彫刻家アントニー・ゴームリ-の身体的芸術性に立った造形概念が、演者の刺激的パフォーマンスをより魅惑的に際立たせていた。
日本では、舞台美術に現代美術家が関わることはまだまだ少なく、やはり舞台は専門の舞台デザイナーによるものが支流だが、欧米では当然のように純粋美術家達が舞台美術を手がけている。今後日本でも現代美術と演劇が融合し、さらに身体表現の新たな領域を広げられるなら、美術・演劇、両世界にとっても野心的且つ創造的なことになろう。
今回ロンドンで観たラルビ・シェルカウイの創作「BABEL」は、台詞と身体、そしてゴームリーの空間造形が見事に溶け合った上質な公演であった。・・・・・やはり人間の心にはアートという栄養剤が時折必要である。
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