今秋、愛知県でCOP10が開催される。
COPとはConference of the Partiesの略であり、世界から条約締約国が集まって、生物の多様性に関し国際会議が行われるのである。そこでは、現在人間の活動・開発によって、地球上から貴重な野生生物が急速に絶滅していく状況を改善し、将来にわたって多様な生物やその生息環境をいかに保全していくかが議論されるのだ。
「生物多様性」とは、生命の歴史をすべて含んだ時間軸の中で、あらゆる生物種とそれらの成り立つ生態系の豊かさ・バランスによって保たれた状態のことである。当然ながら、我々人間が今こうして生きていられるのは、この地球という生命系の空間すべてに、現時点で存在している全生命がつくる大きなエコロジカル体系が支えていてくれるからである。
・・・・・ただ日本人に、生物多様性や自然保護・環境問題といった意識はまだまだ低いよう思われる。
例えば最近よく話題になるのが、中山間地区で深刻化する野生鳥獣害の問題である。しかしこのイノシシや猿、熊やニホンシカが人里に現れて田畑や人家にエサを求める問題は、彼らが住む森の大半が戦後人工林に変えられ、自然環境が単相となり、本来鳥獣の生命にも豊かでなければならない森が貧弱化したことに原因がある。
日本で森を考えるとき、そこで対象となるものは樹木である。欧州で森といえば、そこに生息する動物も含めて考えるのだが。以前僕が制作のため長期滞在していたイギリスのグライスデールなどは、森林管理官は樹木のほかに鹿や小動物などの調査・管理もしていたよう記憶する。森があれば、そこに様々な生き物がいるのは当然で、なぜか日本の森では、動物は木々の芽を食い荒らす害獣となってしまっているのが残念だ。何度か僕も森の中で鹿やサル・狸などの動物に出会ったことがある。もちろん出会い頭は驚きと恐怖なのだが、恐怖が過ぎると、かつて味わったことのない感動で、体全身震える感覚であった。
それではなぜ欧州では自然保護運動が活発なのか?・・・・・それはかつて彼らが自然を徹底的に破壊したことに始まる。人間の支配によって農耕牧畜を進めることで、ヨーロッパの森は一度完全に滅びてしまったのだ。その歴史的経験から、自然も人間が管理する対象として、自然の重要性、森が破壊されれば人間自ら危機的状況となる不安から、おのずと自然保護の思想が定着していったのだ。
しかし日本にはこれまで自然を破壊した歴史が無い。さらに豊かな自然の中に生活してきた我々には、人間が自然を支配する考え方も持たず、自然とは、人間の力ではどうにもならない対象であり、共生する対象として、すべてを享受してきたのである。従って日本人に、「自然と人工」といった対立するも概念も必要なかったのであろう、日本には「自然」という言葉も存在しなかったのだ。ただ日本にも仏語で「自然・じねん」という言葉がある。・・・・・漱石を読んでいても繰り返し出てくるこの「自然・じねん」という言葉だが、この言葉には「おのずからそこにあるもの」といった意味があり、現在我々が使っている「自然」という意味とは異なるのだが、ただ日本人にとって「自然」とは、計り知れないほど大きなもので、支配や管理・保護などという対象ではなかったことが伺える。
未だ日本には、生物多様性を含め自然保護・環境問題といった意識に切迫感がない。これはきっとこれまでの日本人の自然観と関係しているのだろうが、地球を一つの生命体として考える現在、これまでの情緒的で曖昧な自然保護では取り返しのつかないことになってしまう。自然とのかかわりが希薄になっている時代に、人と自然が近距離で向き合い、共に生きる価値観が必要なのである。それは自然に畏敬の念を払い、多様な動物・植物そして文化を認め合う思想なのだが、この秋開かれるCOP10では、海外の政府やNPO団体から約1万人の環境・自然・生物系の関係者が集まると聞いている。議長国としての日本には、未来につながる具体的モデルの提案を願っている。
COPとはConference of the Partiesの略であり、世界から条約締約国が集まって、生物の多様性に関し国際会議が行われるのである。そこでは、現在人間の活動・開発によって、地球上から貴重な野生生物が急速に絶滅していく状況を改善し、将来にわたって多様な生物やその生息環境をいかに保全していくかが議論されるのだ。
「生物多様性」とは、生命の歴史をすべて含んだ時間軸の中で、あらゆる生物種とそれらの成り立つ生態系の豊かさ・バランスによって保たれた状態のことである。当然ながら、我々人間が今こうして生きていられるのは、この地球という生命系の空間すべてに、現時点で存在している全生命がつくる大きなエコロジカル体系が支えていてくれるからである。
・・・・・ただ日本人に、生物多様性や自然保護・環境問題といった意識はまだまだ低いよう思われる。
例えば最近よく話題になるのが、中山間地区で深刻化する野生鳥獣害の問題である。しかしこのイノシシや猿、熊やニホンシカが人里に現れて田畑や人家にエサを求める問題は、彼らが住む森の大半が戦後人工林に変えられ、自然環境が単相となり、本来鳥獣の生命にも豊かでなければならない森が貧弱化したことに原因がある。
日本で森を考えるとき、そこで対象となるものは樹木である。欧州で森といえば、そこに生息する動物も含めて考えるのだが。以前僕が制作のため長期滞在していたイギリスのグライスデールなどは、森林管理官は樹木のほかに鹿や小動物などの調査・管理もしていたよう記憶する。森があれば、そこに様々な生き物がいるのは当然で、なぜか日本の森では、動物は木々の芽を食い荒らす害獣となってしまっているのが残念だ。何度か僕も森の中で鹿やサル・狸などの動物に出会ったことがある。もちろん出会い頭は驚きと恐怖なのだが、恐怖が過ぎると、かつて味わったことのない感動で、体全身震える感覚であった。
それではなぜ欧州では自然保護運動が活発なのか?・・・・・それはかつて彼らが自然を徹底的に破壊したことに始まる。人間の支配によって農耕牧畜を進めることで、ヨーロッパの森は一度完全に滅びてしまったのだ。その歴史的経験から、自然も人間が管理する対象として、自然の重要性、森が破壊されれば人間自ら危機的状況となる不安から、おのずと自然保護の思想が定着していったのだ。
しかし日本にはこれまで自然を破壊した歴史が無い。さらに豊かな自然の中に生活してきた我々には、人間が自然を支配する考え方も持たず、自然とは、人間の力ではどうにもならない対象であり、共生する対象として、すべてを享受してきたのである。従って日本人に、「自然と人工」といった対立するも概念も必要なかったのであろう、日本には「自然」という言葉も存在しなかったのだ。ただ日本にも仏語で「自然・じねん」という言葉がある。・・・・・漱石を読んでいても繰り返し出てくるこの「自然・じねん」という言葉だが、この言葉には「おのずからそこにあるもの」といった意味があり、現在我々が使っている「自然」という意味とは異なるのだが、ただ日本人にとって「自然」とは、計り知れないほど大きなもので、支配や管理・保護などという対象ではなかったことが伺える。
未だ日本には、生物多様性を含め自然保護・環境問題といった意識に切迫感がない。これはきっとこれまでの日本人の自然観と関係しているのだろうが、地球を一つの生命体として考える現在、これまでの情緒的で曖昧な自然保護では取り返しのつかないことになってしまう。自然とのかかわりが希薄になっている時代に、人と自然が近距離で向き合い、共に生きる価値観が必要なのである。それは自然に畏敬の念を払い、多様な動物・植物そして文化を認め合う思想なのだが、この秋開かれるCOP10では、海外の政府やNPO団体から約1万人の環境・自然・生物系の関係者が集まると聞いている。議長国としての日本には、未来につながる具体的モデルの提案を願っている。
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