ロンドンより列車で3時間半、イングランド北西部に広がる湖水地方は、イギリス最大の国立公園である。かつてピーター・ラビットの作者であるビアトリクス・ポターは遺言書に、「私の所有する土地・建物は、いつまでも保存するという条件でナショナル・トラストに寄付する」と残したそうだ。その彼女が住んでいたのがレイク・ディストリクト、湖水地方である。今なお遺言どおり彼女の家屋敷をはじめ、生前の風景はそのままに保存されている。
なだらかな丘が連なり、大小の湖が点在する湖水地方。かつてターナーやラスキン、ワーズワースといった多くの芸術家が傑作を生み出した場所であり、さらにこの一帯はナショナル・トラスト発祥の地としても知られ、古くからイギリス人に愛され、英国では最も景勝の地とされてきたところである。そのほぼ中央部に広がるグライスデールは、面積約3000ヘクタール、東京ドームなら優に100個は入る森林地帯で、この広大な森が80年代の美術界に多大の影響を与えた実験的野外美術館、グライスデール・フォレスト・ミュージアムなのだ。
グライスデールとは、古代スカンジナビア語で「豚の谷」という意味らしい。きっと中世にはオークが茂り、その実を食べる野生の豚が多く生息していたのだろう。さらに人間とこの森との歴史も古いようだ。森の中には古い炭焼き跡や放牧の為に積まれた石垣が、崩れかけた城壁のよういたるとこに苔むして残っている。ただこの森も、産業革命、第一次世界大戦では当時の造船・建築資材、また燃料の為に樹木が大量に伐採され、自然林のほとんどは破壊された。しかしその後、森林復興の国家プロジェクトが立ち上がり、大恐慌の際には失業者救済も兼ねて、大がかりな植林事業が行なわれた。従ってグライスデールも戦後日本の補助金による造林対策と似たところがあり、森の大部分は針葉樹の人工林なのである。人工林は何処も同じ運命を辿るものだ。人間の手によって作られた森林は、人間の手によって管理されなければ荒れてしまう。70年代のイギリスは経済的にも斜陽国であり、御多分に洩れず予算を削られた森林管理体制は不十分なまま、グライスデール・フォレストもかなり荒れた状態となった。
1960年代よりこの地区の管理官をしていたビル・グラントは、グライスデールを単なる自然保護区あるいは林業区にするのではなく、人間と自然が共生できる新たな文化的サイトとして再生しようと考えていた。そこで70年にグライスデール・ソサエティを設立。人がこの森で文化的体験をするために、まず森の中に「森の劇場」を作り、レジデンス施設なども整えながら、自然をパブリック化することで人々を森の中へ誘い込んで行ったのである。当然イギリスには、休日を利用し家族で自然の中をオリエンテーリングする文化がある。グラント氏の「人と森を結びつける企て」は徐々に成功し、訪れる人も日増しに多くなって行った。次いで1977年、このグライスデールの名を飛躍的に高めることとなるスカルプチャー・プロジェクトが、ノーザン・アーツ・ソサエティ美術担当官ピーター・アーツの提案によって実現されるのだ。
このプロジェクトは、自然と人間そして芸術が共生することを明快なコンセプトとして、英国はもとより海外からも多くの自然派アーティストを招聘し、森全体を野外ミュージアムとする計画である。さらにこのフォレスト・プロジェクトの最大の特徴は、あくまでも成長し変貌する森が主体であり、アート作品は森の変遷と共に変化し、最後には朽ちて自然に戻っていくことにある。
森の生態系と共に生きる芸術、そしてそれを見つめる人間。・・・・・アートと自然とのかかわりを実現したこの実験的プロジェクトには、訪れた人々が森の意義・森の力をもう一度考え直す契機になってくれたらと、そういう意図が内包されているのである。・・・・・つづく
なだらかな丘が連なり、大小の湖が点在する湖水地方。かつてターナーやラスキン、ワーズワースといった多くの芸術家が傑作を生み出した場所であり、さらにこの一帯はナショナル・トラスト発祥の地としても知られ、古くからイギリス人に愛され、英国では最も景勝の地とされてきたところである。そのほぼ中央部に広がるグライスデールは、面積約3000ヘクタール、東京ドームなら優に100個は入る森林地帯で、この広大な森が80年代の美術界に多大の影響を与えた実験的野外美術館、グライスデール・フォレスト・ミュージアムなのだ。
グライスデールとは、古代スカンジナビア語で「豚の谷」という意味らしい。きっと中世にはオークが茂り、その実を食べる野生の豚が多く生息していたのだろう。さらに人間とこの森との歴史も古いようだ。森の中には古い炭焼き跡や放牧の為に積まれた石垣が、崩れかけた城壁のよういたるとこに苔むして残っている。ただこの森も、産業革命、第一次世界大戦では当時の造船・建築資材、また燃料の為に樹木が大量に伐採され、自然林のほとんどは破壊された。しかしその後、森林復興の国家プロジェクトが立ち上がり、大恐慌の際には失業者救済も兼ねて、大がかりな植林事業が行なわれた。従ってグライスデールも戦後日本の補助金による造林対策と似たところがあり、森の大部分は針葉樹の人工林なのである。人工林は何処も同じ運命を辿るものだ。人間の手によって作られた森林は、人間の手によって管理されなければ荒れてしまう。70年代のイギリスは経済的にも斜陽国であり、御多分に洩れず予算を削られた森林管理体制は不十分なまま、グライスデール・フォレストもかなり荒れた状態となった。
1960年代よりこの地区の管理官をしていたビル・グラントは、グライスデールを単なる自然保護区あるいは林業区にするのではなく、人間と自然が共生できる新たな文化的サイトとして再生しようと考えていた。そこで70年にグライスデール・ソサエティを設立。人がこの森で文化的体験をするために、まず森の中に「森の劇場」を作り、レジデンス施設なども整えながら、自然をパブリック化することで人々を森の中へ誘い込んで行ったのである。当然イギリスには、休日を利用し家族で自然の中をオリエンテーリングする文化がある。グラント氏の「人と森を結びつける企て」は徐々に成功し、訪れる人も日増しに多くなって行った。次いで1977年、このグライスデールの名を飛躍的に高めることとなるスカルプチャー・プロジェクトが、ノーザン・アーツ・ソサエティ美術担当官ピーター・アーツの提案によって実現されるのだ。
このプロジェクトは、自然と人間そして芸術が共生することを明快なコンセプトとして、英国はもとより海外からも多くの自然派アーティストを招聘し、森全体を野外ミュージアムとする計画である。さらにこのフォレスト・プロジェクトの最大の特徴は、あくまでも成長し変貌する森が主体であり、アート作品は森の変遷と共に変化し、最後には朽ちて自然に戻っていくことにある。
森の生態系と共に生きる芸術、そしてそれを見つめる人間。・・・・・アートと自然とのかかわりを実現したこの実験的プロジェクトには、訪れた人々が森の意義・森の力をもう一度考え直す契機になってくれたらと、そういう意図が内包されているのである。・・・・・つづく
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