土屋公雄のブログ

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「Mの記憶」 丸ビル・アートプロジェクト
 「恋の丸ビルあの窓あたり、泣いて文書く人もある。ラッシュ・アワーで拾った薔薇を、せめてあの娘の思い出に、テケテッテテ・・・・・」 西条八十
 
 「丸ビルが建った当時は、すばらしく大きな様式の建物が東京駅前に建ったという感じがした。私はまだ建ち終わらないうちからホトトギス発行所にその一室を契約した。」 高浜虚子

 「楠の事務所は丸ビルの6階にある。ビルディングの出口に近い花屋には季節の花がゆたかに売られている。薔薇がある。ショウブがある。ひなげしがある。グラジオラスがある・・・。」 三島由紀夫

 「しかし、桐子は女代議士にはならないで、丸の内のサラリーガールになったのである。今や二十二歳の、いわば娘盛りの・・・・・」 源氏鶏太

 「東京駅を降りてその広場に立った時、丸ビルを中心に巨大なビルディングが、空高く一直線に切っているのが何となくアメリカを思わせる。アメリカを思わせるのも道理、それらの巨大なビルディングには、近代の高速度な商業が、金融が、アメリカ式資本制度のなかに動いているのである。」 今和次郎

 これらの文章は、旧丸ビルが近代日本文学のなかで小説や詩の舞台として描かれてきたものであり、いかに旧丸ビルが人々の心を惹きつけ愛されて来たかが伺える。常に時代の先端をいき、日本の文化やビジネスシーンをリードしてきた丸の内。・・・・・そしてその代名詞であった丸の内ビルディングが2002年に生まれ変わることとなる。

 丸の内の顔として知られる旧丸ビルは、1923年竣工の日本初近代的オフィスビルとして米フラー社の最新施工技術の導入により建設された。当時としては先進的な構造形式・建築様式をとりながら、公衆へも文化的パブリックスペースとし開放し、さらに時代を先取るテナント構成は、これまでにないビジネスコンセプトとして反響を呼ぶことになる。その後も高度経済成長期を迎え、時代と共に東京の景観が移り変わる中、日本の先端的オフィスとして国民に親しまれ続けてきた。
 その丸ビルが80年余りの歴史を経て、1999年、老朽化から建て替えられることとなる。そして解体工事の際、地中から5600本もの松杭が発見された。それらはビルを支え続けた土台柱であり、地下20メーターまで打ち込まれた杭だが奇跡的にも腐食一つしていなかったのである。

 新たな丸ビルを建設するにあたり、屋内空間を彩るための建築と芸術が一体となるパブリック・アートプロジェクトが組織計画された。そのコミッティメンバーには英国からヴィヴィアン・ロベール氏、米国からジャネット・コプロス氏、そして現在ロンドン在住の建築家・川上喜三郎氏が参画し、三菱地所設計、現代彫刻センターのスタッフと共にアメニティあふれた知的創造空間実現のためのコンセプト作成、さらに作家選考が行なわれた。
 「建築とアートのインターフェース」として選ばれたアーティストは6名。イタリアからジャンパオロ・バベット、イギリスからスザンナ・ヘロン、シェイラ・ウェイクリー、川上喜三郎、アイルランドからコーバン・ウォーカー、日本から土屋が参加させていただくことになった。

 プロジェクトに際し、僕は解体時に出土した松杭を作品素材とすることにした。かつての旧丸ビルを構造的に支えてきた杭を利用することは、建築的歴史性にとどまらず、旧丸ビルと共に生きてきた人々の時代性・時間性を表現することであると考えたからである。
 長さ16メーターの松杭二本にアートという新たな役割を与え、その一本はブロンズ製の松杭として、旧丸ビルの面影を復刻した正面エントランス部分に、新丸ビル竣工から未来にかけての年号、2002年から2100年を刻み垂直に立てた。もう一本はオリジナルのまま特殊樹脂でコーティングし、ブロンズ製松杭の足元から直線的に床に埋め込まれたガラスケースに影のよう収めた。そしてこのオリジナル杭には、旧丸ビルの竣工から解体まで、過去の年号である1923年から2000年を刻んだ。

 都市の風景を想う時、慣れ親しんだ構造物が解体されることは、同時にその地域のアイデンティティの一部が失われることでもある。建築の基礎材としての松杭を敢えて記憶の証人としてエントランスに提示したことは、土台柱から連想する建築のスケールや想起する建物のイメージと同様に、杭に刻まれた年号は、必ずや対峙する本人が生きてきた時間や時代の記憶を留めさせることにも繋がると考えたからである。建物が建て替えられ、その周辺の風景が一変されることで遠のく記憶の断片を留め置くことは、その場と関わり生きてきた人たちの重要な「生の証」を確認する行為とも連続するのではないだろうか。この作品は、時代と共に薄れ行く街の記憶や人々の記憶に対し、アーティストとして何が出来るかを考えた結果であった。

 2007年、さらに「新丸ビル」も完成し、丸の内界隈は急速に変化をしている。そんな時代にあって、「Mの記憶」が佇む丸ビル・エントランスだけは、80年前と同じ時の流れを感じさせ、歴史や時代を今に語り継ぐ空間であってほしいと願っている・・・・・。


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Date : 2009.09.27 Sun 08:18  未分類| コメント(-)|トラックバック(0)
 

  

 

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