「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」。・・・・芭蕉「奥の細道」の序文でる。
・・・・・月日というのは、永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人であると記しているのだ。
この名文ではじまる歳月の流れには、昔より日本人に受け継がれてきた自然観である生成流転・永劫回帰のすがたがみてとれる。そしてそこには絶えず循環していく天体の運行や、それによってもたらされる四季の変化や時間循環への観察が働いている。
すでに縄文時代の世界観には、人が死ねば「あの世」に行き、あの世からまた「この世」に帰るとされる、「この世」と「あの世」の永遠の循環という自然観があったようだ。
日が昇る東の果てには再生の象徴としての「常世の国」が存在し、日が沈む西の果てには穢れをはらい清める「根の国」と死の象徴としての「黄泉の国」があり、太陽は「根の国」で清められた後に、再度東から昇っていくという再生の概念である。
2008年、今年も残すところ十日ほどで暮れようとしている・・・・・。
そして2009年、再び太陽は東の空より昇り、新たな一年がスタートする。
年の瀬となり、今更ながら僕はこの芭蕉の循環の世界観に、千年の日本人の心のDNAを感じている。
・・・・・月日というのは、永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人であると記しているのだ。
この名文ではじまる歳月の流れには、昔より日本人に受け継がれてきた自然観である生成流転・永劫回帰のすがたがみてとれる。そしてそこには絶えず循環していく天体の運行や、それによってもたらされる四季の変化や時間循環への観察が働いている。
すでに縄文時代の世界観には、人が死ねば「あの世」に行き、あの世からまた「この世」に帰るとされる、「この世」と「あの世」の永遠の循環という自然観があったようだ。
日が昇る東の果てには再生の象徴としての「常世の国」が存在し、日が沈む西の果てには穢れをはらい清める「根の国」と死の象徴としての「黄泉の国」があり、太陽は「根の国」で清められた後に、再度東から昇っていくという再生の概念である。
2008年、今年も残すところ十日ほどで暮れようとしている・・・・・。
そして2009年、再び太陽は東の空より昇り、新たな一年がスタートする。
年の瀬となり、今更ながら僕はこの芭蕉の循環の世界観に、千年の日本人の心のDNAを感じている。
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