月を追いかけていた。
アトリエの帰り道、僕は木々の間から赤くて大きな満月を見た。以前にも、東京のビルの谷間からのぼる巨大な満月を見て、思わず足を止めたことがある。この、月にまつわる視覚的現象は、子供の頃から不思議に思ってきた。ただ、この現象に関しては、どの資料を調べても具体的に説明されることはなく、いわゆる目の錯覚によるものらしいのだが、僕にはどうにも納得できない。確かに、大きさの知覚には、人間の知・情・意が働く場合や、知覚以外にも情意機能の働きから、パースペクティブのトリック画の様に、錯視率を持つ場合がある。地上には山や木・建物など、もろもろの物体が中間に介在する為、無意識にそれらと比較し距離感が大きくなり、月は巨大に見えるということなのだが。もっとも、頭上高く、さえぎる物なく仰ぎ見る月と、地平付近で見る月では、明らかに地平の方が大きく見える。‘93年の秋、スコットランドのエジンバラ城で見た月も、いつもの倍には見えた。たしかあの時も、土産物屋が建ち並ぶ、ダラダラとした上り坂の途中、突然前方の城越しに、オレンジ色に光る巨大な月を見たのだった。
また、絵画の世界でも、日本画の琳派などは実に独創的で、俵屋宗達描くところの「武蔵野」などは、薄野のはてに巨大な上弦の月が表現されている。
いつの世も月は、人間の心理状態や無意識的比較によって、自由に大きさを変えているようだ。なんと月とはミステリアスで、人の想像力に深く関わる存在であろう。
・・・・・また、久しぶりに月を追いかけてみたくなった。
アトリエの帰り道、僕は木々の間から赤くて大きな満月を見た。以前にも、東京のビルの谷間からのぼる巨大な満月を見て、思わず足を止めたことがある。この、月にまつわる視覚的現象は、子供の頃から不思議に思ってきた。ただ、この現象に関しては、どの資料を調べても具体的に説明されることはなく、いわゆる目の錯覚によるものらしいのだが、僕にはどうにも納得できない。確かに、大きさの知覚には、人間の知・情・意が働く場合や、知覚以外にも情意機能の働きから、パースペクティブのトリック画の様に、錯視率を持つ場合がある。地上には山や木・建物など、もろもろの物体が中間に介在する為、無意識にそれらと比較し距離感が大きくなり、月は巨大に見えるということなのだが。もっとも、頭上高く、さえぎる物なく仰ぎ見る月と、地平付近で見る月では、明らかに地平の方が大きく見える。‘93年の秋、スコットランドのエジンバラ城で見た月も、いつもの倍には見えた。たしかあの時も、土産物屋が建ち並ぶ、ダラダラとした上り坂の途中、突然前方の城越しに、オレンジ色に光る巨大な月を見たのだった。
また、絵画の世界でも、日本画の琳派などは実に独創的で、俵屋宗達描くところの「武蔵野」などは、薄野のはてに巨大な上弦の月が表現されている。
いつの世も月は、人間の心理状態や無意識的比較によって、自由に大きさを変えているようだ。なんと月とはミステリアスで、人の想像力に深く関わる存在であろう。
・・・・・また、久しぶりに月を追いかけてみたくなった。
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