僕も歳をとったものだ。このところよく子供の頃の記憶がよみがえる。
7~8歳の頃だったか、我が家に突然、絵を売りに来た男がいた。年の頃なら30前後、作業服のような上下を着、いつ風呂に入ったのか髪の毛はボサボサ、どこから見ても風采の上がらぬ男であった。彼は家の前にリヤカーを横付けにし、数十点はあったであろう、白い布に包まれた絵を、一枚一枚丁寧に取り出し父に見せていた。ただ、最初のうちは絵心など皆無の父も、困惑げに首を傾げながら、不審気な男の話を聞いていたのだが、そのうち店の奥にいる母も呼び出し、会話に加わらせ、説明されるまま、真剣に絵の解釈に聞き入っていた。それまでは階段越しに、その突然の訪問者を何気に見ていた僕も、恐る恐る父と母の間に割り込み、リヤカーの上に広げられた絵を覗き込んだ。
彼の絵は、そのすべてが具象の風景画だったと記憶する。その中の一枚に海を描いたものがあった。今思うとなかなかの力作で、深いエメラルドグリーンが主体となり、鈍よりとした鉛色の空と荒れ狂う日本海が、重厚なタッチで抽象的に描かれた油絵だった。
その時は僕も、我が家が絵を飾るような家ではないことを知っていたので、まさか見ず知らずの絵描きから、絵を買うようなことはないと思った。
すると、突然父が「公雄は、どの絵が好きか?」と、聞くではないか。
僕は驚きと共に「この絵が好い。」と、とっさにあの抽象的な海の絵を指差し、父は苦笑いしながら「ああ、そうか。」と一言いい、その絵を買ったのである。
後にも先にも有り得ない、父がアートを買った奇跡的な一日だった。
絵描きも余程嬉しかったとみえ、サービスだと言い、絵には彼特製の額縁をつけてくれた。そしてその絵は、我が家唯一の芸術作品として客間に飾られることとなった。
しかしなぜ、あの時父は柄にもなく、嬉しそうに見ず知らずの絵描きから絵を買ったのだろう。当時の我が家は経済的にも決して裕福ではなかった。さらに死ぬまで父は「芸術は、分からん、分からん。」と、言い続けた人である。・・・・もちろん父は、見るからに貧しそうな芸術家に同情し、何かしらの支援をしなければ気持ちが治まらなかったのであろう。またあの時代、昭和30年という頃は、今よりもっと大らかな時代であり、人と人とが支え合いながら生きていた時代でもあった。
ただこの出来事は、結果、子供の僕に重大な影響を与えることとなるのだが・・・・・。
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とにかく、絵を描くことが好きだった。描くことは、三度の食事と同じ程、生活の一部であり、次から次へとイメージは浮かんできた。僕にとってのスケッチブックは広告紙。チョークを持てば、家の前の道路は一時間もすると、延々と続く絵巻のよう。夏の日、小学校の校庭に、棒切れで引っかき描いた地上絵。ブロックの壁には、巨大なあみだクジ。雨の日、曇りガラスに指でなぞった風景画。雪が降れば、新雪に転げ廻り身体で描いたステゴザウルス。夜、布団に入れば眠りにつくまで、天井の染みとのにらめっこ。いつしか頭の中には壮大な森が展開し、そして、それは夢の中で描かれた。
子供の頃の落書きの思い出は数限りなくある。なかでも一番印象に残る落書きは、母との知恵比べで描いた、箪笥の裏の戦争画。
当時僕の家は、部屋と部屋とが襖で仕切られ、その襖越しに箪笥があるといった具合で、箪笥の裏の襖は、めったに開くことがなかった。したがって、ここに描かれた落書きは、引越しするまで誰にも気付かれることはなかった。あの箪笥の裏は僕にとって、秘密のキャンバスだったのだ。
僕が本格的な美術と出会ったのは、小学校の高学年。毎月、父が仕事で上京する際、当時、直江津回りの夜行列車は優に十時間はかかったものだが、そんな長旅も苦とも思わず父のお供をした。それは、父の仕入先が御徒町にあり、上野公園が近いことから、僕は父の仕事中、一人旧都美術館を見ることが出来たからである。もちろん父も、子供である僕が美術館の中にいることで、安心して仕事が出来たのだろう。
落書き少年の僕にとって、美術館は遊園地とも違う、不思議で、それでいて刺激的な場所であった。石造りの建物内部には、絵画や彫刻がところ狭しと展示され、都会のおしゃれなインテリ達が、足音・話し声に気づかいながら作品を見ている姿は、子供ながらに聖域的場所にも思えた。きっと美術館という特別な空間には、それまでの日常にはない特別な匂いと時間が支配し、好奇心旺盛な田舎の少年には、無国籍で魅惑的な、それでいてちょっぴり大人の世界にも感じられたのだ。
多分その頃からだろう、僕が美術という表現、芸術という世界を意識し始めたのは。
僕は美術館が閉館されるまで、繰り返し展示室の作品、その雰囲気を楽しんだ。
そして日が暮れ始めた頃、僕はいつもの待ち合わせ場所である西郷さんの銅像の前で、仕事を終える父を待っていた。
当時僕は、小学2~3年生だったと記憶するのだが.....。
夏休みに入ったばかりの校庭は、照りつける強い日差しに、藤棚の落とす影だけが壊れたコピー機の写真のよう、ハイ・コントラストに校庭の隅を塗りつぶしていた。僕は誰もいない校庭に一人、一匹の蟻を追っていた。早朝ラジオ体操の直後から追いかけ始めたのだから、すでに数時間はたっていた。
お尻の一部がつぶれた大型の黒アリだった。当然アリは他にも何百匹といたのだが、すでに僕には、そのアリと他のアリとの見分けがついた。
アリが巣穴に逃げ込めば、僕はその入り口を見つめ何十分と待ち、なかなか彼が出てこないと、穴の周りを両手でたたき、それでも彼が現れないと、痺れを切らした僕は小枝でその穴を破壊し、強引に彼を連れ出し追いかけっこゲームを再開した。
あの日、僕と黒アリは広い校庭を何週したのだろう。今になって思うと、炎天下二人だけの特別な時間が流れていた。
陽が西に傾き、空腹感と全身が汗と泥にまみれた頃、遠くで僕の名を呼ぶ声がした。
その夜、僕は父と銭湯へいった。擦り切れた膝小僧が赤く腫れ上がり、熱い湯が傷口に沁みて痛かった。僕は歯を食いしばり泣いていた。父はいつも通り、僕の二の腕をつかみ全身を容赦なく洗った。僕は最後まで、膝小僧の傷がどうしてできたのかを話せなかった。
ただ、あの時僕がいつまでも泣いていたのは、傷口の痛みだけではなかった気がする。
.....ところで、あの日の黒アリは最後どうなったのだろう。
1998年の春に、僕は東芝国際基金のグラントを得て、オーストラリアのニュー・サウス・ウェルズにあるバンダノンという地で、アーティスト・イン・レジデンスとし、一ヶ月間滞在したことがある。バンダノンはシドニーから車で約250k、サウス・コーストのショールヘブン河口に位置し、ユーカリも多種にわたり群生する自然豊かなカントリーサイトである。
バンダノンでのアーティスト・イン・レジデンスに関しては、あまり日本では知られていないが、かつて この地に、オーストラリアでは著名な画家アーサー・ボイドが、1100ヘクタールという広大な土地を求め、自邸とスタジオを建てたのが1979年。
しかし その後彼は「誰も、風景を独占的に所有することはできない。」という事から、敷地とコレクションのすべてを国に寄付することとし、1993年バンダノン・トラストが設立され、98年バンダノン・アーティスト・センターがオープンしたのである。
トラストの敷地中央には小さな湖もあり、その周辺には牛も放牧され、どこかヨーロッパ的な風景も感じさせるのだが、だだ 時折数十頭のカンガルーが群れを成し移動する姿は、やはりオーストラリアならではであった。
さらに 夜ともなれば満点の星。.....僕は長い間、星の光に色があることを忘れていたようだ。ブルーやイエロー・オレンジと、さまざまな色彩を放つ星たちは、まさに宝石の様であり、その中に一際輝く南十字星は、今なお僕の瞼の奥に残っている。
昨年の冬、ギャラリーでの打ち合わせが突然変更となり、久しぶりに映画を見ることにした。渋谷の街をぶらつきながら、地下街の広告欄を見ていると、懐かしいアイルランドの風景と共に、カンヌ国際映画祭受賞、さらにケン・ローチ監督作品と記されたポスターが目に留まり、僕は何のためらいもなく、その上映館へと足を向けた。
映画の内容は、1920年代のアイルランド独立戦争から内戦へと移行する中での、コーク地方に住むある兄弟を中心とした、激動の時代を描いたものであり、イギリス人監督ケン・ローチが、いつの時代にも起こり得る悲劇とし、自国の帝国主義時代の暗部を、意図的に描いたものであった。ストーリーもさることながら、その場面場面の風景と、アイルランド地方独特の霧雨。シトシトと降り続く雨は体を芯から冷やし、ただ 雨もいつしか上がると、どこからともなく囀る鳥の声、そして草の匂い。この国を訪れた者なら誰もが体験することで、映画の中ではその感覚が随所に表現されていた。
映画も終わり外に出ると、渋谷の街はガスがかかったよう薄っすらと滲んでいた。二時間前には雨の気配もなかった街に、霧雨が降っていた。
アイルランド映画を見たことと喉の渇きから、急に僕はギネスが飲みたくなり、時折立ち寄る新宿のアイリッシュ・パブへと向かった。
四年前僕は、アイルランドのダブリンで展覧会をしたことがある。それは2002年、ブラジルのサンパウロ・ビエンナーレで個展をした折、その作品を見たアイリッシュのポール・マナハン氏が「是非、あなたの展覧会をダブリンで企画したい。」と申し出てくれ、翌年の2003年6月、彼がディレクターをする5thギネスハウス・ギャラリーで開催することとなった。展示会場となるギャラリーは、世界的ビール会社ギネスの本社内にある。ギネスは以前より現代美術のコレクターとして知られ、メセナ活動の一環としても、地域に開かれたノンプロフィットのギャラリーを持ち、アイリッシュの若手アーティストや海外の現代美術を紹介してきたのだ。
ギャラリーのフロアには、展示場以外にレストランやスタンド・パブもあり、いつでも新鮮なギネスが飲める。僕が制作・展示のため滞在していた約三週間、毎日のよう、朝・昼・晩と飲んでいた。ここだけの話、展覧会より本場のギネスを飲めることの方が楽しみだったのだ。
その日 新宿のアイリッシュ・パブは、大勢の外国人客で賑わっていた。
カウンター脇のテーブルでは、ギター、バンジョー、バイオリンが哀愁に満ちたアイリッシュ・フォークを奏でている。人々は立ちながら片手にギネスを持ち、楽しそうに飲んでいる。店の奥ではダーッを楽しむ英国風若者が、時折奇声を発し浮かれていた。僕も外国人バーテンダーに英語でギネスを注文し、カウンターの丸椅子に半分腰掛けながら、パブの中に充満する熱気と音楽をサカナに一人飲んでいた。
僕が二杯目のギネスを飲み干したころ、肩越しに僕の名前を呼ぶ者がいた。
振り返ると、なんとポールである。四年前ダブリンで世話になったポール・マナハンではないか。僕は驚嘆し、なぜ彼がここにいるのか繰り返し尋ねた。
「ポール、なぜ君はここにいるんだい?」
すると彼も面食らった様子で「キミオこそ、いつダブリンに戻って来たんだ?」と尋ね返すのである。酔いのせいもあってか、この不思議な出会いに僕は混乱し、当惑を隠せなかった。
ただ彼の話を冷静に聞くと、どうやらここは東京ではなくダブリンのようである。
何がなんだか分からないまま、とりあえず僕らは再会の喜びで乾杯をした。そして四年前の展覧会での出来事や、現在のアートシーンについて語り合った。すでにお互い五杯目のパインッグラスが空になっていた。終電近くとなり、僕らは名残惜しく別れることとなった。彼はまだ飲み足りないと見えて、六杯目のギネスを知り合いのアーティストと飲み始めていた。
僕は今、自分がどこにいるのか分からないまま、アイリッシュ・パブの扉を開け、外へ出た。
・・・・・・・そこはやはり、新宿のネオン街であった。ただ 見上げると霧雨がシトシトと冷たく舞っていた。まるで、アイルランドのように・・・・・・・。